従者達は襲い掛かる賊徒達を皇子に近づけないように、狭い小道を利用して必死に防戦したのでしょう。しかし、多勢に無勢、追い詰められ若宮皇子はとうとう自害することになってしまいました。観世音寺もこの時に焼け落ちました。
その後、一度は逃げさった人々は、使い慣れた武具を持ってきて戻ってきました。賊徒達はこれを御器所の首長からの援軍と勘違いして蜘蛛の子を散らすように四散しました。
人々はやっと皇子を探し出しました。かろうじて意識のあった皇子は、生前の諸事業に対する協力に感謝の言葉を述べられ、『自分の魂魄は、この地にとどまり、代々災害、災禍から守護せん。』と誓って息を引き取られました。
人々は、現在の名古屋牛乳ビルの場所に若宮皇子塚を築き、手厚く斎葬しました。(明治5年に川原神社へ遷す。)若宮皇子は今も川原神社若宮社にて、昭和区の平和と繁栄を祈りながら、静かに眠っています。