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江戸時代の昭和区4

10月末から翌年の正月までの時期には、村の道の松並木や、村中の木々にまで大根が干してあったとのことです。大根漬けの繁忙期には、たくさんの人夫が働き、一説では年間100万本以上の大根を仕込み、各地へ出荷されていたそうです。

 

その後、世代は移り代わり、沢庵漬け初代の太助さんの長男である、二代目太助さんが後を継ぐことになりました。二代目太助さんは、文久、元治、慶応、明治時代(1860~1912年)に渡り、沢庵事業を拡大し、御器所沢庵の名声を天下に広めた功労者となりました。

二代目太助さんは、御器所村から名古屋城下に行く道を大八車が通れるように道を拡張整備したりもしました。

 

御器所の沢庵業者は、皆沢山儲けて繁栄してきました。ただ、明治時代後半になると、繁盛する『萬家』に刺激されて、御器所台地の各所で、販売用沢庵を製造する他の業者が現れ増えていきました。これらの沢庵業者は、行商人に沢庵を卸し、その行商人が名古屋市内を行商して歩きました。大正時代、名古屋市内の沢庵消費量は一日あたり11250㎏以上もあったそうです。

また、行商人たちも5~6人の仲間を作り、大樽も共同購入して本格的な行商小売商人となっていきました。

 

この頃になると、すでに、軍隊への沢庵の納入も、八百屋の代わりに沢庵屋が直接売るようになっておりました。日清戦争以降(明治27年)は名古屋の人口は急増しました。日露戦争(明治37~38年)では沢庵の消費量も急激に増加しました。

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