『萬家』が沢庵漬けを本格的に始めると、農家にとっては、収穫した大根を継続的、大量に、安定した価格で『萬家』に買い取ってもらえるようになりました。今までは農家が大根を作っても、豊作だと値段をたたかれ、不作だと収入が減って、いつも収入は不安定なものだったのです。
さらに、農家の人々は、『萬家』でできた沢庵漬けを仕入れて、行商で名古屋城下に売りに行けるようにもなり、現金収入も手に入るようになり、大勢の農家の人々に喜ばれました。
沢庵行商は小桶に移し替えた沢庵漬けを、てんびん棒で前後に荷ない、早朝の暗いうちから出かけていき、『香々エー、エーエン』と声を張り上げて売り歩きました。
その行商活動は午前中に済ませ、午後からは畑仕事に従事したということです。
城下町の人々には、御器所の沢庵漬けは刺身のように旨い、とたいそうな評判になり、その美味しさは『御器所の刺身』と言われ、争うように買い求められたということです。
そして萬家太助さんは文政時代(1818~1831年)に尾張藩御用商人となりました。藩から産業奨励の思し召しでお買い上げの栄を賜り、江戸土産として御用達を仰せられるようにまでなり、『御器所沢庵』の名は益々世に知られるようになっていきました。
そうして、御器所村一帯は、見渡す限りの大根畑となっていきました。