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昭和区の古代史0

中国がまだ日本を倭と呼んでいた時代、大和地方を中心に九州をも支配する統一国家=大和朝廷が成立した。尾張地方がこの大和朝廷の支配下にはいったのは、4世紀末から5世紀にかけてのことといわれる。

645年の蘇我氏滅亡事件を契機とする政治改革=大化の改新により、土地・人民の個別的な所有や、その支配の形は否定され、中国の律令制度にならった、公地公民に基づく中央集権的で官僚的な国家機構への改革が進められた。

701年、大宝律令が施行され、天皇を頂点とする全国支配の仕組みが整った。尾張国もこの仕組みに組み入れられ、都からは中央の貴族が派遣されて国を支配した。人々は口分田を与えられる代わりに租庸調といった租税が課せられた。尾張国の国府は現在の稲沢市(国府宮)に設けられていた。国府は地方の政治と文化の中心であり、近郊には国分寺、国分尼寺が建てられた。都での仏教文化の興隆に従い、尾張国にも多くの寺が造られていった。

律令国家の繁栄は目覚ましかったが、その中での農民の負担は厳しく、その負担に耐えかね故郷から逃亡するものも多かった。中央では口分田の不足により、743年に墾田永年私財法を出し、土地の私有を一定の条件のもとで認めるに至った。

これはそんな時代の話である。

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